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Lagom:ほどほどインテリアVol.7

Lagom:ほどほどインテリアVol.7

欠けたコップ のこと

もう20年近く前のお話です。

近代的な建物に住む友人が多い中で
私が10年程住んでいたスウェーデンの港町、
ヨーテボリーの最初のアパートは、
時代に取り残された、まるで旧時代の香りを漂わせる
今にも崩れ落ちそうな古い建物でした。
そのため、毎年のように立ち退きの噂はアパート中の
住人を怯えさせ、ある年は駐車場に変わる、
また別の年は大型スーパーに変わるなど、
どこから来たか分からない噂に少なからず翻弄されていました。

その日目覚めたのは、週末の遅い午後。
昨晩、友人達と過ごした長い一夜のため
家路に着いたのは遅く、今日は明らかな寝坊でした。

ベットから這い出て一歩一歩、歩く度に疼く頭を抑え、
いつものように台所のガスレンジにマッチを一本すります。
薬缶から慌ただしく蒸気が噴くのを待ちながら、ふと窓の外に目をやると、
アパートの中庭には珍しく数人の住人達が、
遅い春の日差しを待ちわびたかのように集まっていました。

まだ若葉の芽も出ていない枯れたような木の下には、
アルコールに溺れた男性達が輪になり最後の一滴を絞り出そうと
何度も空のビール瓶を傾けては首を振り、
幼子達が走り回る姿を虚ろな目で眺める若い母親の指先には
灰になる寸前の煙草がいつまでもゆっくりと燃え続けていました。

このアパートは丁度、高速道路沿いに建っており、
大型のトラックや無数の車が走り抜けるたびに、
古く薄い窓はけたたましく揺れ動き
その振動が伝わる窓に手を置いては、中庭を眺め続けていました。

それからいつもように珈琲を入れ、PCを起動させようと・・・、
つきません。ブレーカーが落ちたのかと思い
何度か試し、他のスイッチを回してもつかない。
玄関を出て、踊り場や共同トイレのスイッチを試すも、同様につかない。
ここのアパートで初めての停電でした。
待っていればそのうち回復するだろうと呑気に過ごし、
簡単な食事を済ませてから15分、30分、それから
1時間経っても停電は続きました。
いつまでも続く、停電。
いくらなんでも他の住人が気付くだろうと思いつつも、
一向に回復する見込みはありませんでした。

今日中に仕上げなくてはいけない論文が一本あり、焦り始めました。
身支度を済ませ隣人の扉を叩いても返事はありませんでした。
ドアに耳を近づけても物音一つなく、階下に下り知り合いの扉を叩いても
返事はなく、その隣の扉を続けて叩いてもまたもや留守。
申し合わせたように3階建ての住人達は全員留守でした。

部屋に戻り、窓の外に目を向けると若い母親や
ビール瓶を傾けていた男性達はまるで一瞬に消えたかのように
いなくなり、中庭はいつものようにそらぞらしい様子でした。

とにかく今は週末、どこに電話を掛けていいのか分からず、
真っ暗な部屋の中、傾き始めた太陽を横目に冷めた珈琲を手に思案していると、
一つ叩いていない扉を思い出しました。
ここは3階立て、そうだ、1階の住人に聞いてみよう。

日当りが悪く日中でも明かりが必要な螺旋階段下りながら、
1階の同様に古びた扉を2、3度ノックしました。
留守かもな・・・と思い、引き返そうとすると扉はゆっくりと慎重に開きました。
私は開いた扉の隙間に、
ここ数時間、ずっと停電で、どこに連絡したかいいのか分からない、もしよければ助けてくれないだろうか・・・。
滑り込ませるように説明すると、少しずつ開きました。

そこに立っていたのは小花が刺繍された、
色の抜けたような赤いスカーフに頭を巻き、
足元を覆うほどの黒くビロードのワンピースに身を包んだ
どこかの国の年老いた女性でした。
てっきりスウェーデン人が住んでいるのだろうと思っていたので、
驚きつつも、その女性に改めて突然の訪問の非礼を詫びました。
そしてもう一度、丁寧に事の顛末を説明すると、彼女の表情は和らぎ、私の手に重ねるように手を置き、無言で部屋に招き入れてくれました。
いや、玄関で大丈夫・・・、
そう言いつつも彼女に手を引かれ入った部屋はとても小さなちいさな部屋でした。
私の隣人の部屋も階下の知り合いの部屋も同じ間取りで、全て一緒かと思っていたのに
彼女の部屋は台所の広さにも満たない小さな部屋でした。

その部屋には二つのベットが隣り合うように置かれ、
その一つに彼女の夫であろう同じ年頃の痩せた男性が座っていました。
部屋に一つしかない窓からは僅かに傾きかけた日の光が入るものの
ベットには黒っぽい布が被せられ、
その布が一層この部屋を暗く印象付けるかのようでした。
彼女のスカーフのように赤い小花が散りばめられた壁紙は所々破れ、色は煤け傷んでおり
高い位置に飾られた古い金の額縁には、褪せてしまった白黒の家族写真が
罅が入ったガラスに大事そうに収められていました。

ご主人は手招きをし、向いのベットに座るように託しました。
それは申し訳ないと思いつつも、部屋も見回しても椅子はなく
言われたように腰掛け彼と向かい合うと、真っ直ぐに私を見つめ
優しく微笑んでくれました。
それからガラスが重なり合う音に目を向けると、彼女が小さな
台所、といっても電気コンロ一つと水道の蛇口がある暗がりの場所で
お茶を入れてくれているようでした。

私はご主人に顔を向け、もう一度、突然の訪問についてお詫びをし、
簡単に自己紹介をしましたが、彼はただゆっくりと微笑むばかり。
私は拙いスウェーデン語と英語をおり混ぜながら、
どこからいらっしゃのか、もう一度聞きました。
しかし彼は私の手に手を重ね、同様に無言で二三度ポンポンと優しく動かすばかり。
それから数分後、奥さんは小さなお盆に金で縁取られた、
これまた小さなガラスのコップを、飲んでという手振りで私に渡してくれました。

小さな金縁のガラスのコップの飲み口は所々、欠けていました。

唇を切らないように慎重に口を付けて飲む姿を見届けると、二人は続けて
飲み始めました。紅茶のような温かな飲み物には砂糖がたっぷりと入っていました。
美味しい、そう微笑むと二人共もう一度優しく笑顔をつくってくれました。

それからどのくらいこの部屋にいたのかは覚えていません。
心地よい沈黙の中、完全に日が落ち部屋が真っ暗になった途端、
奧の暗がりの台所の裸電球に光が灯りました。
点いた、よかった、ありがとう。
言葉が通じないながらもそういうと、ご主人と固い握手を交わし
同じように彼女は優しく私の手に手を重ね玄関まで見送ってくれました。
本当にごめんなさい、でも、ありがとう、安心しました・・・。
そう言うと彼女は私の頬に小さな手を置き、
まるで言葉以外の全てを理解してくれたかのように
ゆっくりと笑顔で微笑んでくれました。

また会ったら、挨拶をしよう、おはようございます、この間はありがとう・・・と
そう思いながら階段を駆け上がりました。

しかしそれ以降、不思議な程、彼らに出会うことはありませんでした。
共同の洗濯場でも、中庭でも、シャワールームでも表玄関でも。
1階の彼らの扉はいつもように固くしっかりと閉ざされているばかり。

それからスウェーデンでの生活にもなれ始めた頃、少しずつこの国が持つ
もう一つの顔を、移住の一人として感じるようになりました。
あのご夫婦は遠い国からの移民だったのかもしれません。
愛する祖国から深い悲しみと共に身一つで逃れ半年だろうか、それとも、もう何十年も
あの暗く小さな部屋に住み、新しい言語を覚えるには難しく、新たな仕事を得るには年を重ねており、
あのベットに腰掛けながら、今日も妻が淹れる甘い紅茶と共に過ごしているのかもしれない。

もう一度、あの扉をノックすれば良かったのだと、
今でも後悔する時があります。
そしてもう一度、ありがとうと、伝えれば良かったのだ、と。

若い母親に屈託の無い幼子、ビール瓶を傾ける男性達に、
そしてあの優しい老夫婦。

あの古びたアパートで受けた「言葉」以上の優しさを今でも
深く心に後悔と共に刻み込みます。
あの欠けたコップとともに。

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