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- 早速ですが、十川さんが木工作家になろうと決めたきっかけは何だったのでしょう?
きっかけは、大学生のときに、友人たちと開催したグループ展です。
音楽、映像、写真、服飾を勉強していた仲間と一緒に一つの空間を作ることにしたんです。ちょうどその頃にインテリアブームがあって、僕は家具に興味を持ち始めた頃で、家具を作って展示をすることにしました。僕が製作したのは、多様性のある家具をテーマにした枡型のシンプルな家具でした。機能を限定しない家具を人がどのように使うかに興味があったんです。縦にすると飾り棚、横に置けばテーブルにもなるし、サイドボードのような使い方もできます。一つのカタチではあるんですけれど、使う人によって家具のあり方が変わるんです。なんというんでしょう。アレンジ次第で何でもなる。使い手に使い方を委ねることがテーマの家具でした。
だけれどもある1人のお客様から痛烈な批判を頂いてしまいました。
- どんな批判だったんですか?
とても厳しい意見でした。
「家具として成立していない。」
「技術が未熟である。」
その言葉は僕の胸に突き刺さりました。
技術がなければ家具として認めてもらえない。
製作者と使用者を繋ぐためには技術を習得する必要があり、表現したい家具を作るためには、技術が必要だと感じ、大学を卒業した後に長野県の職業訓練校に入学し、1から家具制作を学び直すことにしました。グループ展で頂いた批判の言葉が僕の職人への道を開いてくれました。
- どんな学校だったんでしょうか?
長野県にある木工家になるための学校です。
一緒に学んだ学友は、脱サラをして木工職人を目指す方がほとんどでした。
家具工場で製作するための技術や知識ではなくて、木工職人としての技術を学べる場所だったんです。
- 具体的にどんな事を学ばれたんですか?
一言で言ってしまえば、無垢の木材の扱い方です。大量生産ではなくて、一品ずつ大切に木の特性を見極めながら製作する方法を学びました。無垢の木の扱い方を学べたのは大きかったですね。
卒業と同時に軽井沢彫りの会社に入社して、家具職人として13年勤めました。
- その後、独立をされるんですね。
はい。これぞというきっかけはなかったんです。強いて言うならば、自分自身の家具を作りたいという想いとお客様のニーズにあった家具を作りたいという、相反する想いが同時に湧いてきたんです。その問いの答えを見つけるには、独立するしかなかったのだと思います。
- 独立されていかがでしたか?
会社に勤めていた時に新作家具をデザインさせてもらった時は本当に嬉しかったんです。だけどどこかで自己満足のような気がして、、、もっと必要とされるものが作りたいと言う思いがありました。独立してお客様とお話ししてお客様の欲しいものを伺って、その想いを家具を作る事で実現すると、目の前のお客様が喜んでくれるんです。その喜びは代え難いです。
- 今、新しい家具を十川さんと一緒に作らせてもらっています。一緒に材木屋へ木材を見に言った際に十川さんが話した事を今でもよく覚えています。
何を話していましたっけ?
- 十川さんが「作りたいものを作りましょうよ!」と話していたことが印象的でした。今の時代、売り方や伝え方が重要視されてしまい「作りたいものを作る」と言うことが難しくなってきてしまっているのかもしれません。なんだか清々しくて救われましたね。
勤めていた際に作った家具を見た時に自己満足で終わってしまうと感じた怖れは、もうないかもしれません。職人としての経験を積んで、技術を身につけた上で誰かのために作る事を繰り返した延長上にある「作りたいもの」なんです。
- とてもよくわかります。僕もそうだったなと思います。スウェーデンでフリーランスのデザイナーをしていた時は、企業に採用してもらうためのデザインをしてしまっていた気がするんです。結局そう言う下心があるアイデアは採用されないんですけれど、必死で自分自身を理解できていなかったと思います。軽井沢で10年近く販売店を経験させて頂いて、RATTA RATTARRのディレクションに関わらせてもらう機会を得て、それからの「作りたいもの」は確かに変わったなと思います。
はい。作りたいものを作りましょう!
- 作りたいものを作ると考えると身体性がキーワードのなる気がするんです。
[記憶する体]という本を読むと身体とは薄い皮膚に包まれた袋のようなものというイメージを意識させられます。事故や病気で,たかが数ミリの皮膚から飛び出してしまった身体は、もう自分の身体として所有することはできない。視力や片足を機能的に失うということはそういうことです。ただ、人は身体の一部を失った後も脳はその記憶を保ち続けることができます。視力を失った人が話をする際にメモを取ることや無いはずの四肢が痛む幻肢などがそれを証明しています。身体の物質的な所有は、薄い皮膚の内側か外側かという問題を抱えているけれど、脳にとっての身体というのは皮膚で遮られるわけではないということです。
長くなりましたが、そう考えると絵を描く、デザインをするということや絵を描くということは皮膚の外側で脳を使って身体的機能を用いているのかもしれないと思うんです。僕自身の創作経験でもそのように実感できることもありました。人間が作るモノというのは、皮膚を飛び出した身体とも言えなくもない。作品を自分の分身だと言うアーティストの言葉もあながち間違っていないのかもしれませんね。
ただし、全ての創作が皮膚の外側で行われる身体活動とはならないですよね。それは限定的な創作で、目的が不明瞭でなくてはならなくて、歩くときに歩く事を意識しないようにものを作るときであるような気がします。
- それで、このスケッチなんです。コントロールがしづらい太い筆で敢えてスケッチを描きました、木工の技術や製作方法も意識せずに思うがままに筆を走らせました。このスケッチを技術のある木工職人の十川さんならどう作ってくれるかを楽しみにしていて、、、、
続く