1万円以上
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HUNGING STOOL, TOOLBOX, CUTTING BOARD, KUMIKO STOOL, TOYなど数多くの商品を製作してくださっている KAJITU主宰 小原 実さんにお話を伺いました。
- 木工作家を目指したきっかけを教えてください
そうですね。父親に勧められたんです。小学校の頃から図工が好きな子供でしたから。高校生の時に進学を考えた時に、父親が飛騨高山にある木工を学べる匠塾の存在を教えてくれて。
父親はものつくりに関わることに憧れを持っていたのだと思います。「北の国から」の世代で、あのドラマの生き方に感銘を受けて、乳牛の仕事に就いていました。ただ夢半ば、酪農の仕事を辞めてサラリーマンになったんです。木工作家も本当は自分がなりたかったのかもしれませんね。
匠塾はオークヴィレッジという家具メーカーの職人養成所みたいなところでした。給料はないけれど、その代わり授業料もないんです。学校というよりかは、師弟制度の工房みたいなところでした。もう、現在では学校になってしまったようですけれど。学費がかからないのが良かったですね。笑
学校でないということの一番の特徴は、本人のやる気次第で成長が大きく変わることです。脱サラをしている方もかなりいらしてそういう方は授業が終わってからが本番で、一日中工房で製作をしていたと記憶しています。僕は10期生ぐらいで、初めて10代の若い世代を数多くとった年だったので、授業が終わったらすぐに帰っていました。ダメでしたね。
卒業後は、柏木工という飛騨高山の家具メーカーに就職しました。製造2課という家具を製作する部署に半年間配属された頃に、技能五輪に参加することになりました。僕が参加したのは木工の分野で、与えられた課題を限られた時間内に製作する技術力を競う日本大会です。大会結果は敢闘賞だったのですが、課題の練習をするということで製造部から企画部預かりになったんです。
- 企画部では何をしていたのですか?
新商品の試作と耐久テストです。それから治具製作ですね。(治具家具の加工や組み立ての際、部品や工具の作業位置を指示・ 誘導するために用いる器具)
- 特に思い出に残っていることはありますか?
企画部ってお金を生まない部署なんです。売り物を作らないし、商品も売らないし。そんな中で、家具を作るための治具を作ることは、 役に立っていることが実感できて楽しかったですね。だけど、企画部の仕事は楽しかったのですけれど、どこか鬱憤とした気持ちも持ち続けていたのだと思います。そんな頃、匠塾の同期だった友人が青年海外協力隊に参加する事を耳にしました。それで、会社を辞めて僕も青年海外協力隊に参加することにしたんです。
- 思い切った選択ですね。
そんなことないですよ。ルーティーンの生活に飽き飽きしていたんです。
- どこの国へ行ったんですか?
アフリカのガーナです。特にガーナを希望したわけではなくて、語学力が堪能ではないと希望の国へ行けないという事情とちょうどその頃ガーナへ青年海外協力隊を100人送るという企画があって、その中に木工技術を教えるという枠があったんです。でも、木工技術指導員は100人中僕一人でした。ガーナには日本と同じような木工機械があるんですが、電気がうまく供給されていなくて、なかなか思うように指導ができませんでした。僕は、語学力もなかったので、ガーナ人の先生のサポートのような立場でしたね。ガーナ人の先生は木工知識が豊富な先生なので座学を、僕は実際木工作業をしながら技術を見せるという立場でした。木工技術は、言葉が上手でなくても見本を見せることで、教えることができたんです。
ガーナは理想と現実のカオス体験だったと思います。立派な木工機械が揃った工場があるのに電気が供給されてないとか。でもその中で停電で機械が使えない環境でなんとかするとか、言葉ができないなりに技術を教えるとか臨機応変に工夫でなんとか乗り越えるということは、ガーナで学んだ気がします。笑
- 帰国されてご自身の工房を開かれたんですか?
いえ。埼玉にある店舗什器を製作する家具工場の製造部に3年ほど務めました。その後、青年海外協力隊の訓練所が当時あった福島か安曇野に工房を作ろうと思って、易学で占ったら安曇野の方が運勢が良かったから安曇野へ。笑
無計画に工房を立ち上げてしまったので、最初は仕事がなくて本当に大変でした。金澤さん(金澤図工主宰の金澤知之さん(家具職人)1953年東京生まれ。日本デザイナー学院でデザインを学んだ後、(株)松本民芸家具入社。独学で椅子の座編みと共に、独学で木工旋盤を習得。松本技術専門学校で溶接とストーブ製作を学んだ後、1990年より金澤図工として独立し、木工旋盤、座編み、溶接の異なる技術を生かした製作活動を開始。長野県安曇野市在住)に出会えてなかったら、とっくに辞めていたと思います。金澤さんは恩人です。易学を信じて安曇野へ来て良かった。笑
- 2年前に金澤さんのペーパーコードワークショップの際に、薪ストーブ用のスツールを作っていただいたのが最初でしたね。
はい、1回目はシンプルなスツールでした。2回目からは金澤さんと須長さんと僕の3人で集まって考えましたね。
- 僕は金澤さんと小原さんと3人で集まって話すとトントントンとデザインが決定していくスピード感が好きなんです。職人さんのタイプもいろいろで完璧な製図がないと作れないという職人さんもいらっしゃいますし、金澤さんや小原さんのように、考えていく過程から製作だと考えていて一緒に作ってくれる職人さんもいる。工場ではなくて職人さんとデザインを開発するのならば、僕は一緒に作るところに醍醐味があると思うんです。
でもこういう開発も須長さんありきなんですよ。最初の提案がないと始まらない。そういう発想力は僕にはないから。あと、金澤さんから学んだものつくりの姿勢なんですけれど、良いものを作れば、仕事はついてくる。今を大事にするということです。予算とか手間とかに縛られてしまうよりも、良いものを作ることが一番。結果が良ければ後から色々ついてくるというものつくりの姿勢は金澤さんから教えてもらいました。
3人のものつくりは楽しいですね。僕は加工知識が少しあるから参加させてもらっている。企画部にいたときも製造ラインの事を全然考えていないデザインが上がってきて、製造とデザインを調整する事を得意としていました。
- 理想と現実ですね。笑
須長さんのオファーは完璧に作られた状態でないので、3人で作っている感じが楽しいですよ。
僕は美術工芸品ではなくて、日用品が作りたいんです。木材加工って突き詰めればどこまでも手をかけることができるんです。もちろん、手を加えるほど値段は上がってしまいます。良い頃合いというのがあって、もちろん一生懸命作ります。大切にも使ってもらいたいですし。だけど同時にちゃんと気軽に毎日使って欲しい。それって、作り込み過ぎないことが大切だったりします。須長さんとの仕事はその適度な仕事を理解してくれるからありがたいです。
- 少し話がずれてしまうかもしれないですけれど僕らもインテリアを考えるときに適度というのを大事にしています。SWEDEN語でLAGOMと言うんですけれど、日本語で適度とかほどほどと言う意味になります。ほどほどとか適度と言うと適当のように思われてしまいがちですが、自分の物差しを持っていないとほどほどって難しいんですよね。自分の物差しで測ったほどほどってい心地が良くて飽きも来ないんです。
続く