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CREATER INTERVIEW 004 KANAZAWA ZUKOU

CREATER INTERVIEW 004 KANAZAWA ZUKOU

私たちの商品の金属加工や椅子の座網など数多くの商品を製作してくださっている金澤図工主宰 金澤 知之さんにお話を伺いました。

 - 金澤さんが家具職人になられたお話を伺わせて下さい。

 

高校を卒業するにあたって、進路を決めなくてはいけないでしょう。姉に相談したら建築家ってカッコイイじゃないって。それで安易に建築学部を受験したんだけれども当時から建築学部は人気学部だったからねー。最終的には、インテリアデザインの専門学校に入学しました。学校の授業で店舗設計や製図やレンダリングなどを学ぶなかで家具の授業があって家具のデザインの世界を知りました。家具のデザイン、特に椅子は魅力的で、授業で勉強するだけでは物足りなくて、名古屋の学校だったから、駅前の名鉄デパートの家具売り場に通って椅子のデザインを勉強したものです。

 

金澤さんの仕事場 ここから美しい作品が生まれる

ちょうどその頃、民芸家具ブームと北欧家具ブームがあって、名鉄デパートにはスウェーデンのIKEAの家具売り場や民芸家具を扱う民芸品店がありました。IKEAはその頃、高級家具として紹介されていましたよ。北欧パインを使った家具でしたね。もう45年も前の話になりますけれど。その頃、IKEAのアームチェアーが28000円くらい。高級家具ですね。今も自宅で使っていますよ。

民芸家具はその独特の塗装方法が生み出す質感の美しさに惹かれてね。すごい人気だったんですよ。松本民芸家具の記事がananに特集されたり、NHKのドキュメンタリー番組として特集されたりしていましたね。

 

だんだんインテリアよりも家具を作ってみたいという気持ちが強くなって、在学途中で松本民芸家具を訪ねて、社長に直談判して入社したんです。その頃は4月に入社するような決まりはなくて、就職したいと伝えたら、布団だけ持ってきてくれたら良いよって感じでね。職人用の寮に住み込みで働くことになりました。

 

デザインの学校でしたから、家具デザインするのならば家具製作技術を学びたいと思ったんのだけれども、松本民芸家具の加工は分業で、なかなか実際に家具を製作する部門までの道のりは長かったね。職人が上につっかえていて、なかなか希望の部門にいけないんだ。まずは塗装を学んで、座編みを学んで、次に木取り。その先に木材加工と組み立ての部門があるんだけど、4−5年勤めても木取りから組み立てに上がれない。

そのうちにもう木取りで良いかなって思うようになってね。部門が変わると新人からやり直しでしょう。怒られるのは嫌だしね。5年も勤めて組み立ての作業も見ているともう大体の製作の流れが分かるようになる。それにね、木取りをしていると職人と対等になってくる。職人が加工を失敗すると申し訳なさそうにもう一度材料をもらいにくるんです。それから、自分で木取りをするから、材料が手に入るでしょう。ちょっと加工して自宅に持ち帰って、手作業で椅子や小さなテーブルを作っていました。

 - どんな家具を作っていたんですか?

 

古いやつですね。ウインザーチェアーとは言えないかな。ラダーチェアーとか。座編みの椅子です。アメリカの椅子を真似て親父にプレゼントしたりね。

 

 - 何か見本があったんですか?

 

松本民芸家具は、世界中から集めた椅子のコレクションがあってね。民芸生活館といって家具だけでなく、濱田庄司やバーナード リーチ、河井寛次郎の器や古いウィンザーチェアーなどのコレクションが合掌作りの建物にずらりと並んでいたり、食堂には、修道院で使っていた大きな立派な栗の木でできたダイニングテーブルがあって、そこで食事をしていました。松本民芸家具の創設者の池田三四郎さんが理屈ではなく良いものに触れて感覚的に覚えろ!という信念を持っていてそれを体現したような場所でしたよ。毎朝、掃除をしながら、貴重な物に実際に触れたり、高価なアンティークの家具を使わせてもらったり、とても勉強になりましたね。

 - 本物に触れた記憶というのは、知識として学ぶことと本質的に違う気がしますね。記憶の濃度が違う気がします、金澤さんの仕事の美しさにそういった体験としての記憶があるように思いえます。他にも学びの機会があったのでしょうか?

 

そこの寮はあれなんですね、農作物や味噌も自分たちで作る。日曜日にやるんです。デッサンの日があったり、運動の日があったり、研究発表の日があったりね。14−15人くらいの職人見習いが共同生活していましたよ。寮は音楽もテレビも禁止でね。4年くらいいたかな。今はもうない様ですが、その後ここのスタイルを真似て徒弟制度を取り入れた木工会社がいくつかあったんじゃないかな。職人は理屈じゃないって。

民芸に入ってくる人毎年何人もいましたが色々な理由でやめていく人が多かったですね。自分も含めて。

 

池田三四郎さんは民芸に関する本を出版されていて、民芸運動のなかで家具の代表として、リーチ、柳、ペリアン、黒田、安川など数多くの民芸に関わる人たちの名がついた椅子などを作っていました。松本は松本民芸館のコレクションを寄付された丸山太郎さんなど民芸運動に参加した人が多かったですね。今でも、松本民芸家具は松本を代表する伝統工芸品ですしね。池田三四郎さんはそもそも家具屋ではなくて、航空写真家だったんですけれど、民芸運動に賛同して松本の職人を集めて、元になる膨大な家具のコレクションを集めて、それをヒントに家具を作ったんです。ゴッホの絵に描かれた椅子を民芸家具として再現したり、フィンランドやデンマークの椅子を参考にした民芸家具もありました。松本民芸家具の特徴は、あの独特の塗装にあって、この塗装をすると不思議と民芸家具になるんです。松本民芸の塗装は、拭き漆に近い仕上げになるように考え出された独自の塗装方法でした。

全部で7工程くらいある手間のかかる方法で現在では使用を禁止されている物も使っていましたが、良く考えられた美しい塗装だと思いますね。徐々に塗料も変わっていきましたが。

 

ずっと松本民芸家具を作っていこうと思っていたのですが、僕も訳あって(言えませんが)辞めることになりました。。だけど、僕は家具の組み立てをしていなかったので、家具を作って独立するのは難しいし、仕事もないだろうと考えていました。松本民芸家具の仕事の中でロクロ旋盤(ウインザーチェアーの脚など)の管理をしていたので会社を辞める際に、ロクロ旋盤、木工旋盤をやり、会社の下請けもしますよということで握手で退社になりました。

 だけれど、ロクロ(和ロクロはこけしや椀、盆などを作る技術で、木地師と呼ばれており刃物も自分で作る。)を学ぶ術がなかったんです。当時、学校では教えてくれないし、ロクロ技術を覚えるために、轆轤の職人に弟子入りを頼んでも、断られてしまって。当時、弟子を取るということは全ての技術を伝授して、道具を全て揃えて独立させるということが親方の仕事であるという考えで責任が重かったし、弟子を取る余裕もなかったということで、なかなか弟子入りすることも叶わない。もう独学で始めるしかなかったですね。ただ、どこに行っても轆轤の仕事を見ることができなくて。そうしたら洋書を扱う本屋さんで、アメリカのセンバン技術(西洋ロクロでセンバン機械を使ってウィンザーチェアーの脚など主に棒物を加工する。ボジャー、ウッドターナー)のビデオを注文できると聞いて、アメリカへビデオを頼んだんです。だけど4年間、届かなかった。笑。ビデオが届く頃には、もう、うまくなっちゃてた。改めてビデオを見たら自分で覚えた方法と変わらなk方から自分のやり方は間違ってなかったんだなと思いましよ。

 

当時は、外国製のセンバンや刃物(バイト)も入手困難でバットの製作や木型の製作に使う物を買って(全て国産)始めました。今では簡単に手に入りますが現在でもメインは全て国産の物を使っています。日本のロクロ作業と外国のセンバン作業では道具の作り方から使い方が全く異なっているので、結局独学するしかなかったんです。

センバン加工をやりつつ、自分の家具のデザインをやりたかったんですけれど、師匠について学ぶと師匠のスタイルから抜け出すことは本当に難しいですよ。絵でいうと師匠の画風から抜け出し難い。僕の師匠は松本民芸家具だから松本民芸家具から抜け出せない。松本民芸家具の表現の範囲外のデザインをすると間違っているような気分になってしまうんです。そんな中で、建築家やデザイナーと仕事していくうちにだんだんと価値観が変わってきて、徐々に自分が解放されていきました。

 

中村好文さんとの出会いは大きかったですね。中村さんと知り合い、鉄の溶接にも足を突っ込むことになりました。

僕はその頃、独立はしていたのだけれど機械類をお世話になっていた会社に置かしてもらいながら、そちらの会社の仕事をやらしてもらっていたんです。だけれどもその会社を辞めなければいけないことになって、失業してしまいます。失業期間は、職業訓練校で技術を学ぶことができたんです。そうしたら中村さんが鉄をやってくれる人を探していると聞いて、だったらと溶接科に入学しようと。その職業訓練校では薪ストーブを作る授業がメインだったんです。薪ストーブを作ると溶接から切断、グラインダーまで一通りの鉄の技術が学べて、しかも売り物が作れるようになるということで先生も薪ストーブに詳しい先生でした。今はもう溶接科は無くなってしまったんですけれど、薪ストーブの構造や作り方まで学べる貴重な学校でしたね。

 

卒業して直ぐに、中村さんから暖炉の製作をお願いされました。溶接機もなかったからエンジンウェルダー(工事現場で使う溶接機)の機械を借りてきて、玄関にシートを貼って作りました。中村さんがその建築物なども含めてで吉岡五十八賞を受賞しました。その後、中村さんが置き型のストーブを作りたいということで、それ以来中村さんのストーブを作ることになりました。

 

いつまでも溶接機を借りているのは困るだろうからと中村さんが溶接機を買ってくれました。そのタイミングで工房を今の場所へ引っ越したんです。中村さんが活躍されて名が世へ出ていくのだけれども、中村さんは作る人を大事にしてくれる人だったので他の職人仲間と共に仕事の幅が広がっていきました。

 - 金澤さんが学生時代に感銘を受けた北欧家具と民芸家具のインパクトが今もなお輝きを失わずに金澤さんの中に存在しているような気がします。

 

続く

 

 

 

 

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